後悔してない…なんて、なかなか言えない

2017年10月17日

看取りに関わるとき、ご遺族から言われて、良かったなと思える会話の1つに次のようなものがあります。

「このような最期を迎えることができて、本当に良かったです。後悔していません。」

こう言い切れるご遺族は、おそらく生前に本人から「このような最期を迎えたい」、「このように過ごしたい」という気持ちを共有し、その気持ちを支えることができた、という自負があるのではないかと思います。もちろん本人に確認することなく、「このような最期が良い」というご遺族の意思もあるでしょうが、それが果たしてベストであったかなんて、確信を持てるでしょうか。確信まで持てるご遺族がいるとしたら、よほど思い込みが強い人(良くも悪くも)と言えるかもしれません。

人の死という大きな重しを前に、家族は自分の責任だけで、どのような最期を過ごしてもらうか、自信を持って決めることに大きなストレスを感じます。そして、それを決めきれず、本人の意思も分からず、流されるように最期を迎えると、果たしてこれで良かったのだろうか、と自身の関わりに後悔の念が生じてしまいます。「あのとき、こうしていればよかったのではないか」という気持ちが残ってしまいます。そして、いくら慰めの言葉をかけられても、過去には戻れず、本人の気持ちも聞けず、スッキリ解決することができず、一生その十字架を背負うことにもなりかねません。

この、ある意味、人生最大の辛さを緩和するためには、すべての国民が死について考え、自分の大切な人と死についての考えを共有する世の中にしていかねばならないと考えています。死について話し合うことで始めて、自分にとっての望ましい死の形に近付けることができ、そして何よりそれが免罪符となって、自分の大切な人の気持ちを救うことができるからです。

ましてや病人にしてみれば、この話し合い(アドバンス・ケア・プランニング)はとても負担のかかることかもしれません。進め方次第では傷つくだけになってしまうかもしれません。医療者は、必要なタイミングで考える機会を作り、その話し合いをサポートする必要があります。

そう考えたとき、やはり緩和ケアは看取りだけの関わりではなく、病気を持ったときから継続した関わりが欠かせない、と感じます。

後悔していません…なんて、言われることは数少ないのですが、そういった経験の多くは、長く関わって、ともに悩み、人間同士の関係を築けた先に、聞くことができるものでした。後悔してない…なんて、なかなか言えませんから。

 

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